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乙研雑記 (ITSUU BULLETIN)

化学合成の論理と方法

「化学合成の論理と方法」  尾中忠正  自然 1971 年 8 月号 43-51 ページ

本論文は発表当時から話題を呼んだものであり中央公論新社の許諾を得て PDF で掲載する。少し難しいところがあるので、化学 (ないし科学) の在り方に関する部分を抜粋し注記とともに末尾に付した。そちらから先に読まれてもよい。

自然 1971 年 8 月号 43-51 ページ

抜粋と注記

有機化合物の合成も、"なぜ" という高次の疑問に答えなければならないだろう。 (この頃までは、構造を決定するためという目的が大きかった。近藤教授も落合/岡本教授もセファランチンやトリカブトアルカロイドの構造研究のための合成研究であった。)

科学的成果の評価はその独創性によるべきである。

創造とはまったく新しい異質のものを創り出すことである。
個々の事実の暗記は、そこから一つの法則なり、共通の概念なりを導かぬ限り忘れやすいし、群として小さいため、他の概念との"交り"に到達する可能性が少ない。 (個々の反応や合成が一般則を求めない限り意義が小さい。)

トポロジカルな位置が遠い (いいかえると、容易には連想できない (すぐには理解してもらえない)) 二つの概念が、共通の属性なり、概念なりを認識することにより結びつけられ、新規な概念を創出する。

"いつ" (when)、"どこで" (where)、"だれが" (who) は、産業においては重大な意味を持とうが、自然科学研究という面からは、まったく制限を有しない。 (Onaka: The first synthesis is nothing at all.)

最も重要な疑問を提示し、多くの研究の機動力となる "なぜ" (why) も、合成化学の研究においては哲学的な意味あいしか有せず、直接的な問題として認識されない。 (現在でもこの状況が続いているところがある。しかし、世界中で化学の中でも有機化学は、Harvard はじめ Department of Chemical Biology と看板を変えているところが多い。)

合成化学の最終的な目的の一つは、より高次の意図により必要とされる化合物を、必ず合成することであり、合成の方法は、合成化学が他の学問の手段として供されるためには欠くことのできない要件である。 (このことは過去から現在、そして将来とも不変な重要な立ち位置である。)

落合教授は、芳香族 N-オキシドという一連の化合物に興味を持ち、次のような研究を行った。ここに得られた二つの反応 r1、r2 はまったく新しい方法であり、これらを用いれば A1 は P2 となし得ることが見出されたことになる。 (基本的な新反応には大きなインパクトがある。当時すでに、この反応だけで一冊の単行書が出来た。)

シオノギ研究所の永田亘博士は、イボガミンそのものを得る方法としては、いままで知られているもののうちで最も有力なものである。 (Onaka: The " last " synthesis is everything. イボガミンはこのころ既に " last " synthesis が達成されている。last は究極に近い意味か。)

なぜその化合物の構造が明らかにされねばならぬかが、(複雑な天然物の構造研究について) 最も重要な今日的問題である。不幸にして (幸にしてというべきか) 合成化学は未だあらゆるエネルギー的に存在可能な物質を合成するに足る確立した方法論を有していず、たしかにこうした高次な問に答えなければならない必然性は乏しい。 (今では過去形といってよい。)

合成化学が、研究者の領域としての不可知な聖域から次第にルーチンな方向へと加速的な歩みを続けていることは事実である。 (尾中論文の後、40 年の間に、技術的、各論的な集積は山のごとくあるが、原理的な進歩は数少ない。尾中予測のとおり、現在では、"必要" なものであれば、なんでも合成できる時代になっている。総コストの問題のみ未解決の時がある。異論もあろうが。)

われわれはあるものを合成することが、より高次な疑問 " why " を解決するための手段であり、またまったく新しい反応 " how " を開発するための手段であるような時代に直面することは疑いない。 ("新しい反応" にも why がかかっている。)

あるものを合成するという研究のアプローチは、研究者の思考空間をかりそめに限定し、見透しをよくするための便宜的な簡単化にすぎないことが明らかとなろう。 (多くの場合、かりそめの限定が漫然と一生のテーマとなっている。)

合成を行うにあたっても、常に他の次元の概念とのかかわり合いを心におき、より根本的な問題の解決のための手段なりきっかけなりを求めているという積極的な認識のもとに研究を行うことこそが、真に独創的な研究態度といえるであろう。
(注記は首藤による)
2013/12/02 (K. Shudo)

尾中論文を読み直して (有機合成の展開のために)

既に鬼才尾中忠正博士の 1971 年の論文で指摘し、尾中博士の " The first synthesis is nothing at all. The " last " synthesis is everything. " (目 武雄, 有機合成化学協会誌, 32, 763 (1974) ) および「簡単な化合物の簡単な合成法」という逆説的な課題にこめられた思想は 40 年以上を経た今、もっと吟味せねばならない。いまの合成化学は、創造性の入る余地はないとまではいえないが、尾中思想からは大きく離れたものである。

かの論文にあるように「"なぜ" という高次の疑問に答えなければならないだろう」との指摘が、有機化合物の合成においては、今だに、あいまいにされているのが現状である。今は反応データベースで膨大な個々の事実は外部メモリーに蓄えられ、いつでも引き出せる状況になっているのが有機合成の現在である。また、既に尾中博士の論文でも説かれているように、方法論が確立された今、何故ゆえに、あるいは何のために合成をするのかという疑問に答えるのが、もしも科学者と自称するのならば、義務であろう。いまや必要なものは合成できるのであり、合成は技術なのである。

乙卯研究所は近藤平三郎教授 (構造研究のために合成研究をすすめた)、落合英二教授 (全く新しい方法の発見) の思想を受け継ぎ、重要さには大小があるが、その後も化学研究をすすめてきている。科学ばかりでなく、科学的であるにはその理論や方法が一般性をもたねばならず、落合教授の N-オキシド研究も、最近よく使われる鈴木反応のごとく、科学としても技術としても優れている。鈴木反応はいろいろな場面で非常に優れて有用であるが、これは辻二郎教授の Pd の先駆的研究が基礎として発展した化学技術であることを忘れてはいけない。伝統的な考えの継承は重要である。

もう一つ尾中論文で強調されていることは独創性である。「独創性とは思考空間で未だむすびつけられてなかったものを、その類似性 (何らかの理由で) により拡大し、そこから一つの法則や共通の概念が導かれねばならない。」また、新しいということだけでは、何ら意味がないのである。容易には連想できないことでなければならない。「なるほど」とすぐには理解されず、それには時間がかかることが多い。技術はスポーツの記録のように追い越される。

謎はいくらでもあり、また研究中に新たに生まれてくるものである。ただ、謎が解けたときには当たり前のこと、不明の至り (何だ、そうだったのか、あまりおもしろくない) ということ、も多いのである。しかし科学は、その課題が有用でないにしても、謎解きに挑戦せねばならないのである。

ここで合成は不要なのだとは誤解しないで欲しい。単なる合成には「科学性」には欠けるところが多いが、技術としては必須である。医薬ばかりでなく、添加物、機能性高分子、表面化学、電気材料、食品はじめ日常生活のあらゆるところで化合物が必要であり、それらの生産の場においての基盤であるばかりでなく、日進月歩の改善改良が常に望まれるのである。医薬品を考えただけでも、それらの合成は、「単に合成すること」のみにも、熟練した合成技術が必要であり、仮に合成化学者が不足すれば、たちどころに医薬製造業は麻痺するし、新薬のための合成も滞るであろう。この合成という「高度な技術」は継承すべきものであり、一旦、中断したり、実力を落とすと、回復には多大なエネルギーがかかる。

類例 (本質的に新しくない) の集積は技術の保存の上でも欠くべからざるものであり、その結果、一般則が導き出されれば科学も成長するのである。合成は切磋琢磨により向上する技術でもある。作りたいものは合成できねばならないのだ。技術であるから最も収量 (経済効率) がよいというのも大事である。だから、天然化合物や既知化合物を単に合成するときには、その意義を十分に考えねばならない。作りたいものは何なのか、どんなものか、過去の技術を乗り越えるものなのか、新規なものなのか、物性 (存在の可能性を含めて)、機能、活性などにどんな期待を抱いているのか。化合物合成は化学以外の科学と技術の発展に必要なことは論をまたない。そこ (合成以外の視野) を漠然とでも見越した合成でなければならない。ここが尾中論文の言いたいことだろう。

今は、科学と技術は融合しているというのがかなり一般的な考え方でもある。しかし、本来は別物であるし、Ham & Egg、Bread & Butter といっても Ham と Egg、Bread と Butter とは別物なのである。加えて述べると、科学と技術の二兎を追うことは可能であるし、科学的発見からは、しばしば有用な技術が生まれ、また、有用な技術の中には科学の種が埋まっているのである。いま自分が進めている研究が、科学か技術のどちらを志向しているかについて、いつも考えていなければならない。

この考えに基づいた研究の一部を 「薬学をやっている気分」 に記してある。科学と技術の具体例の一つとしてご覧いただきたい。
2013/12/02 (K. Shudo)


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